Archive for 2006年2月

Published by Yoshimi on 2006.02.19

第3章 驚嘆の感覚の解剖

「イマジネーションの 生態学~子供時代における自然との誌的共鳴」
(Ecology of Imagination in Childhood,1977)

第3章 驚嘆の感覚の解剖

子どもは時間のない世界に住んでいるのではなく(このような考え方は全面的に大人の幻想である)、 子ども自身が自分を、つぼみが開いていくような一つの成長現象であり、時間的・空間的な広がりの中での 生きていくひとかけらであると深く自覚している、とコッブは強く主張しています。「子どもの全身は 『期待原理』を体現するもの、すなわち時間的な連続性と空間的に変化する形とを表して」いて、 どんなに小さな子どもであっても、いつどこで事が起きるだろうかと気にかけています。

「時間と空間において自己を拡張しようという欲求-つまり、生きるため、呼吸をするため、 そして存在するために創造するという欲求-は、個人の生存の機能としての自己再生産の欲求に 優先する。いや、実際問題として、必然的にその欲求を超えるものである。」

子どもにとっての時間は、識別できるような境界は持たないけれども、 感覚のうえで時間的連続性を持っており、そして同時に空間的にも可遡性を持っています。 子どもの期待と希望とは、人生後半において直観と予想が覚醒される時を除いては、 生涯の他のどの時期よりも大きなものです。子どもが時間的・空間的関係を組織して ひとつの世界を創造し、その世界の中に自分と同一なものを見つけ出そうとする時、それは子どもの 生理的な欲求によって起こり、それによって子ども自身の中に喜びが生じます。この働きは 「言語以前の形式創造の遊び行動という美しい比較するという比喩的行いの中ですでに始まって いる」のです。

「子どもに特有な周囲の世界に対する反応としての『高揚』は、まず第一に生理的である。 知的な驚き、それは外の世界に対する人間の神経組織の反応である。」幼児時代に 身体の触覚組織全体を通して目ざめた未来への感覚は、後の世界の感じ方を左右する 記憶すべき反応なのです。

「したがって、プラトンが、認識の発達と理論的知識との源として認めた驚嘆の感覚の解剖は、 神経組織の生理学と動物の種における知覚の進化との中に求めなければならないようである」と、 コッブは主張します。
動物行動学において、ウィリアム・ソープは「動物の有機体の出現とともに、そこに、私たちが 知覚と定義するものも現れる」という考えを展開し、「神経組織の出現とともに、環境を組織化 しようとする欲求は、あらゆる知覚活動の中で、もっとも根源的なもののひとつとなる」と述べています。 そして、神経組織の進化を論じる中で、これらの機能的な組織が発展してきたのは「知覚の本質そのものに 先天的に備わっている洞察力という原始的・動態的能力が、生命有機体の発達における最も初期の段階の 一部分を占めていた」ためとし、「学習しようという内的動因は、中枢的で神経的なものである。 また、組織され複製された認識構造そのものが、学習がそこへと向かう目標なのである」といいます。

外の世界に対してからだ全体は、筋肉組織、神経組織、感覚神経機構と運動神経機構の全てを総動員して、 知覚のための努力とその達成にあたります。その上目的を持つあらゆる創造力は、必然的に前進運動の感覚、 目的に達しようとするための努力や期待に基づいています。どのような時代のどのような文化にあっても、 「子どもあるいは詩人にとって世界を知ろうとする隠喩的な方法への前奏曲は、この根源的な知覚活動の 中で始まる」のです。

「知覚的な行為は、身体的な働きのさまざまなレベルが複合したものであり、パターン化されたエネルギーとしての 物質の表現であり、さらには、『神経系組織の総合的活動』を通して、究極的な表現を獲得する というように、階層性を伴なった連続性の総体であると評価されるだろう。」

「子どもにとって、時間と成長とは、有機的にまた知覚的に同等のものである。なぜなら、成長は、 時間の中の運動に関するひとつの感覚経験だからである。」そして「子どもの『世界つくり』は、 環境の部分部分を自分が存在している共感的な統一体へと再創造し、再整理するという形式をとった ひとつの連続する宇宙的な思索なので」す。

身体はひとつの統一的な活動組織として、出生後に次第に「恒常性の知恵」を積み重ね、あらゆる認識と 思考との動物的な基盤である活動とパターンを同化・吸収していきます。「生命そのものは、調整と統合という 行動パターンの中で歴史的に実演」されます。

コッブはここで、思考過程を向上させようと努力する場合に、呼吸などといった非常に身体的な行動 を無視し、観念的に考えようとすると、「非常に重要な女性と子どもの関係をそっくり見落とすばかりでなく、 身体という小宇宙と森羅万象の大宇宙との身体的な対位法に感応することさえできなくなってしまう」、 「人間に顕著な特徴である直感的な宇宙感覚を、技術的健康の中の意味のある基盤から切り離すことになる」 と言います。

そして章の最後にコッブは「ジーニアス(天性、genius)」を、「子ども時代の本質的な特性(natural genius of childhood)と、 「場所の精神(spirit of place)」とから始まる生命文化的な(biocultural)段階でのひとつの進化的現象」 (引用文中全て傍点つきであるここでは省略)と定義しています。

【解説】
この章の難しいところは、今まで驚嘆や学習という哲学などの方面で語られてきたものを、生理学で 説明しようとしているところです。また、発達心理学のゲゼルの名前も見られます。いろいろな説が でてきて、なかなか理解が及ばないところが多く、私もできる範囲でインターネットで調べてみましたが、 調べきれないというのが実際のところです。
しかし、私は昔から、どんなに哲学的なことを論議したとしても、人間は所詮動物なのであり、 動物的な行動は無視することができないと考えていたので、今回のように神経組織の発達の歴史の中に 学習の要因を見出したことは非常に興味深かったです。

この章を簡単に要約すると、次のようになると思います。

・子どもは時間的空間的な広がりの中に身を置いていて、その広がりの中で自己を拡張させようとして、 自分の世界を創造し、その中に自己を見出す
・外の世界に対して体の知覚機能全てを総動員することによって世界を知覚し学習しようという 内的要因は、神経的中枢的なものである
・子どもの中で時間と成長とは同等のものであり、世界つくりは子どもを取り巻く環境を再構築するという 連続した宇宙的な思索である
・ジーニアスとは

ジーニアスについては、次の第4章で詳しく触れていますので、そこで説明を加えたいと思います。

Published by Yoshimi on 2006.02.19

第2章:認識の源泉としての驚嘆

「イマジネーションの 生態学~子供時代における自然との誌的共鳴」
(Ecology of Imagination in Childhood,1977)

第2章:認識の源泉としての驚嘆

「驚嘆の感覚は、自発的なものであり、子ども時代の特権といえよう。」子どもは あらゆることに驚き、喜びます。ここでいう驚嘆は「『もっと出てくる』とか、あるいは、より適切には、 『もっとできる』といった見込みをもたらすような、ある何らかの外的刺激の不可思議さに対する反応 -つまり、既知・未知のものに、知覚を通して参与しようとする能力-として」生じます。そして 子どもは「自分の住む宇宙の神秘を感じそしてそれと同時にその法則性を感じることを」 学びます。

「子どもを取り巻く環境は、自然と人工とに分けられるものではない。子どもの環境は、環境の刺激によって 自分自身の身体に送り戻される情報からなって」います。子どもと環境との間にみられる関係は、 まさに「個々の有機体のエコロジーを代表して」います。「この意味で、生命とは、環境との間の 相互的・機能的なやりとり、あるいは交わりの問題なのである。この相互関係は、精神にとっても、 身体にとっても等しく滋養となるものであり、また、それらに生命と形を与えるもので」あるのです。

人間の子ども時代は、一生の中で最も創造的な時代として一般化することができ、 「特異に文化的であるがゆえに人間的であるものと、全く自然的にあるがゆえに生物的 であるものとが、一つに組み合わさってできて」います。
人間の特徴的な生物的特質は「引き伸ばされた幼児期」です。すなわち、生まれてからしばらくは とても依存的で、母親とかなり密着した育児が必要とされます。この時代の遊びたがる傾向は、 同じように巣に似た環境で育てられる動物にも当てはめることができますが、それらと人間との 重要な違いは、「人間の子どもの遊びには、実際の本人以上の何かになろうとしたり、考えたことを 劇化し『実演する』努力が含まれる」ということです。

遊びに関しては今までさまざまに研究されていますが、子どもの積極的で創造的な学習、 ならびに個性的で個人的な努力の範囲内においてのみ可能な、環境への宇宙詩的な 探索に関しては、大部分が見落とされています。そしてコッブは、「私の考えでは、 主として、積み木、絵の具、あるいは、無定形であるが構造が半ばできかかったような何らかのもの (つまり、砂、木の枝、石等)を用いた子どもの柔軟な遊びの中に、さらにいっそう複雑で 構造化された形象(gestalten)を生み出すことへと、次第に広がってゆくような能力の 最も初期の形態を、見出すことができる」と言います。

子どもの質問の中にある目的や、子供達の遊びの行動と創造的に考える人達の回想記との両者 に見られる目的を考えると、自己と世界とを統合しようとする試みの連続性や、それと関連した、 本能や洞察力ともはっきり区別される学習への動因が伺えます。自己と世界とを統合するような 「目ざめ」は、多くの自叙伝では自然の世界への鋭い感覚的反応として説明されています。 そして、その目覚めから起こった創造的な目的へと向かう動因は、「一般に、直観すなわち認識の ひらめきによるもの」とされています。そしてここでコッブはあえて直観について、「神秘的なあるいは 特殊な型の洞察なのではなく、動物の『潜伏学習』に似ているがそれとは異なって、新たな意味を創造する という可能性を持った知覚的学習の一側面であるというように考えたい」と言います。

子ども時代に、生活の泥やごみを喜んで受け入れることや楽しむことは、環境との自己同一化によって 環境全体との相互関係を創り出す力を完全なものにし、後年においても、 分別ある思考のあらゆる段階での理解力を授けてくれるといいます。そして「幼児にとって、実在するものの本質について問うことは、大部分、自己と世界の間の無言の弁証法である。 言語が、この自己と世界との対峙をはっきりと表現する時、それは、子どもによる粘り強い探求全ての基調をなす。 この必要性を感じ取り、子どもの問いに対して誠実に対応する大人は、子どもの心と精神が自分のそれらと 結ばれていることを見出すだろう」と言います。

「子ども時代の自然への参与の段階で、精神(スピリッツ)のエネルギーとしての情緒と、行為の世界の エネルギーとしての場の精神(スピリッツ)とが融合する」この時、心の平衡が訪れます。それを的確に示すものとして、 バーナード・ベーレンソンの自叙伝から次の文章を引用しています。

「子ども時代、また、少年時代、戸外で幸せな時には、この忘我の状態が私を圧倒した。その時、5歳か6歳 だったろうか?たしかに7歳ではない。それは初夏の朝であった。銀色のもやが、ライムの樹々の上でちらりちらり 光り、揺れ動いていた。あたりはライムの香りでいっぱいであった。気温は私を抱きしめるようで気持ちよかった。 私は忘れずに覚えている-思い出す必要はない。私が樹の切り株に登ると、突然にそのもの(Itness)になったと 感じたことを。私は、それをそのような名前で呼びはしなかったが。言葉はいらなかった。それは私と ひとつであった。」

ここで表現されている「認識の喜び」は、知ることと在ることがより大きな過程の中で何らかの方法で同時に起こり、 連続しているものです。そして、このような種類のものとしての行いが、それ自体で心理的平衡の達成なのだ ということの、喜びに満ちた認識なのです。
この経験の中で、子どもは気持ちの高揚を感じるけれども、それは「自然の行為と連続するものとして、彼自身の 心理身体的な成長の可能性に目覚めた意識に対する情熱的反応」であり、知性的(メンタル)、すなわち精神的 (スピリチュアル)な健康状態の要求と深く結びついています。
そして「この6歳の時点こそ、言葉以前ではあったけれども、彼が初めて彼の身体の調和と自然の調和とを意識的に 感じ取った時」なのです。この調和は「立ったり、動いたり、遊んだり、形作ったり、あるいは、自分のまわりにある 世界の中に、自然の形成過程における普遍的で審美的な論理の一部として、自分の回りにある世界の中にただ存在する、 という力」なのです。「子どもは、経験の心像を読み取り、そして、後のより形式的に固定され理性化された体系において 見落とされるような関係の論理を、しばしば言葉となる前に感じ取る」のです。

「子どもと大人の想像力は決して同じではないけれども、私たちには、意味を還元して、それを引き延ばされた 幼児期と子ども時代とに対して再構成する能力が備わっている。知覚と思考との可遡性を維持する能力は、人間の 個性への子ども時代の贈り物である。」

【解説】私がこの章の中で強く印象に残っているのが、「言葉を取得する以前に、自己の調和と自然の調和を意識的に 感じ取ることは、心の平衡をもたらす」というところと、「環境の同一化をはかる(なることによって知る) という方法によって自己と環境との連続性に目ざめ(直感的に感じと)る」というところです。
ベーレンソンの自叙伝からの引用を読んで、自分の体験を思い出す方もきっといらっしゃることと思います。 私もこれを読んで、自分の内面にある同じような体験を思い出すことができました。林の中に一人身を置いた 時の静けさ。木々のざわめく音。風の音。自分が自然の中に溶け込んだような感覚。それが「自然と 自己との調和」であったと思います。そしてそれが心の平衡をもたらすのは「環境との相互作用によるもので、 精神的にも身体的にも滋養となる」類のものであるからだとするところは、まだここでは詳しく語られて いませんが、納得できる部分がありました。
コッブの別の論文「子ども時代における創造力のエコロジー」では、5歳から12歳という、生物的性格の強い幼児期と 激動の青年期の間の穏やかな時期に、子どもは極めて強い喚起力を伴なう形で自然との世界を経験し、自然との 深いところでの一体感が内部に生じ、直観が生物的基盤を持つことを示す証がはっきりと現れる、というように 記述されています。

そして直観について、ここでは環境について言葉になる以前の関係を感じ取り、そこから新たなものを創造する 学習の一形態としています。最も端的な例でいうと、後の章に出てくるのですが、ニュートンがりんごが落ちるのを見て 万有引力の法則に気がついたことがそれにあたります。科学の世界においてこれまでにいろいろな発見がされていますが、 それはすでに世界の中にあったことで、その関係に気付き、追求し、言葉によってそれを表現するできた人が 「発見」を達成したのだ、ということを、改めて気がつかされました。だからその「言葉になる以前の自然との 関係」を感じ取ることができるか、ということが重要になってくるのであり、それは言葉を完全に習得し、 世界を言語で定義してしまう前の子どもの時代に経験することが大切なのではないか、とするコッブの意見には なるほど、と考えさせられました。
直感に対して、コッブと似たようなことを表現したものに、マイケル・ポランニーの「暗黙知」があります。 ここで少し引用してみます。

 

人間の知識について再考するときの私の出発点は、我々は語ることができるより多くのことを 知ることができる、という事実である。この事実は十分に明白であると思われるかもしれない。 しかし、この事実がなにを意味しているかを正確に述べることは簡単なことではない。 一つの例をとりあげよう。我々はある人の顔を知っている。我々はその顔を千、 あるいは一万もの顔と区別して認知することができる。しかし、それにもかかわらず、 我々が知っているその顔をどのようにして認知するのかを、ふつう我々は語ることができないのである。 (マイケル・ポランニー『暗黙知の次元――言語から非言語へ』、紀伊國屋書店、p.15)

そして自発的積極的な創造的な遊びの中に見出せる、環境に対する宇宙詩的な探求が、 後の学習態度に影響を及ぼすことも重要ではないかと思いました。ここでコッブが語っているのは 必ずしも天才を育てるためのことを言っているわけではありませんが、創造的な大人には、 環境との連続性に目ざめ、そこから新しい関係を創造していく能力が備わっていると述べています。 その「創造する」探求も子ども時代に顕著で、その時に探求を大いにさせてやることが大事だと 思いました。

Published by Yoshimi on 2006.02.16

第1章:方法に対するプレリュード

「イマジネーションの 生態学~子供時代における自然との誌的共鳴」
(Ecology of Imagination in Childhood,1977)

第1章:方法に対するプレリュード

「イマジネーションの生態学」は日本語版でも200ページに満たない薄い本なのですが、 内容が多岐にわたっておりかつ難解となっています。第1章ではこの著書が記述されるその方法(手法や用語など)について書かれていますが、前書きでマーガレット・ミードが触れているように、コッブの理論の中心がこの第1章で述べられています。それだけに最初読んだときにはわかりにくい部分が多いという印象があります。

この著書は「『子ども時代の天性(genius)および創造力の意味』に関する、子どもたちとの フィールドワークを含めた広範囲にわたる調査研究の結果」です。この「天性」という言葉は 私にはいまいちしっくり来ません。原語のgenius(ジーニアス、天才・才能・特質といった意味) の方がぴんときやすいし、訳者の黒沢さんも後の編書(自然との共鳴1・子供の想像力と創造性を育む) で「ジーニアス」と使用していますので、ここではジーニアスを使用します。
「子ども時代のジーニアス」とは、「他の動物全ての種と異なり、人間の子どもは、生物的 満足や成熟の範囲を越えようとしたり、また、環境に対して今までなかったような新しい形を 与えようとして、自発的に何かを求めるよう奮闘してみせ」るという、積極的で創造的な能力 を指しています。そして「健康という問題を精神的・および心理社会的な方面から考える時の主要な糸口が、 精神身体的な局面から考えていくと同様に、子ども時代に自然に生じてくる想像力、 すなわち内発的創造力をともなった想像力の中に在ることを」示そうとしました。

そしてそのような子どもの「何かを作りあげよう」とする強い衝動は、「永い自然の歴史、すなわち 進化における形態発生の特徴と、明らかな類似を示して」いるとします。そして「子どもと自然とが 生命の美ともいうべきものを希求するという点において、かなり対応し引き合っていることに」コッブは 気付きました。これは子どもの創造する強い欲求が、生長現象、つまり人間が成長していく過程で 見出される成長の特徴的現象ではなく、「形態発生」すなわち自然界に生きる動物の一種として、 その環境に適応するために形態を変化させるという営みに、非常に近いということを述べています。

コッブは、ひとりひとりの人間による固有の世界観の形成というテーマは、各自のアイデンティティ(自己像) を確立するために不可欠な要素だが、そのテーマを追求するために旧来の言葉よりも「生命文化的(biocultural)」という 言葉を使用する方が、語義上からも隠喩上からも、より明確で描写的だと述べます。そしてその表現によってこそ、 「人間の個性を進化の歴史の流れの中に位置付けることが可能となる」と言っています。なぜなら「人間の本質を動物の それから区別する特徴が、個性を生み出す人間の限りなく卓越した能力に」あり、「個々の人間は、それぞれの 持つ生命文化的に生得なものの現れ方において無二のものであり、ほとんどその人自身、生命文化的種である といってもいいほど」なのだからです。

子ども時代というものは、「ひとりひとりの人生において最も活発な創造的な学習がなされる生物的段階」 であり、「文化的伝統を取得するために、生物的性質を越えることを」学びます。 ただしこの創造的な学習というのは「世界について他人が解釈したものを暗記し記憶する能力とは、著しい対照」 を示します。それは「知覚と思考とを結びつけるため創造的手段を取得しようとする意図を伴なう遺伝的に 動機付けられた」学習過程であり、「自分が知覚する自然を、文化的(すなわち人間の)用語で把握 できるようになる以前に、心理的にも意味論的にも自然を超越していかなければならない子どもに 本質的に備わった」ものなのです。

コッブは、樹木テストや箱庭療法などといった精神分析でしばしば扱われる投射的手法が 遊びの形式や技巧に由来し、かつ類似するものであるという事実から、次のような見解を 述べます。つまり、「意味の再構成や再解釈の探求の際に大人の精神の中で起こる、思考と知覚とにおける 還元作用を可能にするのに、ある種の謙虚さ」すなわち「共感をともなった謙虚な知性」が必要であり、 この「創造的な知性は、また、自分自身の自我-世界への帰属感覚を保ちながら、 他者の世界の中に同一化し参与する能力を要求」するのです。

「子どもが持つ自然とつながっているというエコロジカルな感覚は、一般に神秘的な経験として知られているものとは 異なっている。それは、基本的に審美的であり、また、知りそして生きるという力に内在する喜びで満たされたものである と、私は信じている。これらのことは、子どもにとって作るという力の感覚と同じものである」とコッブは述べています。彼女は研究の予備調査として、創造的な大人たちの自伝や回顧録を収集し、その中で皆「幼少期に自然と宇宙とに対して ある根本的な関係」、すなわち自然との連続感覚を感知していた、と記述していることを発見しました。そしてそれを確かめる ために「人間の個性に備わる創造の原理としての、また、文化的進化の源としてのこども時代の精神の探求」 を行うことにしたのです。

コッブは科学としてのエコロジーが、生きている有機体とその環境全体の互恵関係を評価することを可能にして いるとした上で、「この研究における外挿法が、エコロジカルな科学の活用としてあまりにも突然で、あまりにも極端に 見えるとしても、私たちは、キーツの優しく情のこもった一節、『多くの人は、それと知らずして詩人なのである』 という表現を借用して、多くの人は今はそれとは知らずしてまた気づかずしてエコロジストなのであると、 言うことにしよう」、「あらゆる人々が、知覚したことを言語へ変換するという達成のために…自然の動態を エコロジカルに読み取ってこなければならなかったのである」と記しています。
そしてエコロジーを「思想史上初めて、思想の諸カテゴリーの間の互恵関係と相互依存関係とに関する研究を 行うための手段」として認識し、「審美的な知覚と鍛錬された思考」を用いることによって、つまり「芸術家の洞察と 科学者の新しい説との間」をそれぞれに行きつ戻りつすることによって、「生物学と宇宙学との間の交差点として の子ども時代の経験」、その交差点で行われる「私たちの世界観を、そして、人間の意味について考える私たちの 哲学を構築する作業」について考察をすすめていったのです。

Published by Yoshimi on 2006.02.16

イディス・コッブについて

イディス・コッブ(Edith Cobb,1895-1977) は 私が大学の卒業論文で取り上げた人です。彼女の著書はたった一つ、「イマジネーションの 生態学~子供時代における自然との誌的共鳴(Ecology of Imagination in Childhood,1977)」のみ です。コッブは大学などで研究する立場の人間ではなく、上流階級のレディとしての教育を 受けた一女性でした。子どもの遊びと想像力との関係に興味を持ち、多数の偉人の伝記・自叙伝を 収集し探求し、あるいは子どもの遊ぶ姿を観察し、といった研究を30年以上も続け、彼女の死後に ようやく著書が出版されています。

コッブが発見したのは、子ども時代に経験する自然との共鳴の感覚(自然とつながっている感覚)が、大人になって創造的にあろうとする時に回想される、ということでした。そしてそこから「子ども時代がひとりひとりの人間にとってもっとも活発な創造的な学習がなされる生物的段階」 であり、子どもが自然環境と関わる中でいかに世界を知覚し学習し、ひとりひとりの世界像を作り上げてゆくか、そしていかに文化的存在としての人間に「進化」していくかを述べています。

その方法としてコッブはエコロジー(生態学)という用語を用いています。「エコロジー」とは「生きている有機体とその環境全体との間の互助関係を、そしてまた、生きている相互依存組織としての有機体同士の互助関係」を明らかにする科学の一形態ですが、彼女はそのエコロジーの思想を「私達が思想史上初めて、思想の諸カテゴリーの間の互恵関係と相互依存関係とに関する研究を行うための手段を持っている」として、哲学・心理学・人類学・発生学とさまざまな内容をからませながら独自の理論を展開しています。

「イマジネーションの 生態学」は、北米の大学で環境学を教える一部の人たちから高く評価され、必読書として挙げられている、 と訳者の黒沢三和子さんがその解説で書かれています。そして本の分類では生態学の分野に 分類されています。しかしその内容は環境学・生態学だけでなく、教育学の側面からも読まれるべきものと、私は強く思います。ともかく内容が多岐にわたっているため非常に難解で、私も久しぶりに読んでみてその難解さに頭を痛めました。しかし、以前と比べてすっと理解できるようになったところも発見したりして、自分が年をとって、あるいは子どもを持ってわかるようになった部分もあるんだなぁと実感しました。また、このエッセイを書くにあたっていろいろとインターネットでコッブの情報を探してみたのですが、全くと言っていいほどないのに驚きました。あっても誰かの論文の中で特定の表現が引用されていたり、「自然との誌的交感」といった言葉を使われるにとどまっていたりして、コッブの本当の意味での理解がされていないように思いました。ここで私はますますコッブを世に知らしめなければ!といった使命感(?)を感じ、この難解な著書を読み砕いて、コッブの思いを伝えたいと考えるようになりました。これから独特な表現や難解な理論がたくさん出てきますが、よろしくお付き合い下さい。